庄川物語
STORY

五箇山地方

庄川上流の五箇山地方は、現在では世界遺産の合掌造り集落が有名で世界からたくさんの観光客が訪れますが、40〜50年前まではその交通の不便さ故に“鳥も通わぬ陸の孤島”と呼ばれていました。
特に冬は半年近く豪雪に閉ざされ、世間と隔絶した生活を強いられていました。そのために江戸時代には加賀藩の流刑地として利用され、150人もの罪人が送られてきたと言われています。

また、加賀藩は合掌造りの床下を利用した火薬の材料“塩硝”の製造を奨励し、その品質は日本一といわれ藩の財政を助けました。

菅沼合掌造り集落

五箇山民謡

今から800年以上前、源平の戦いに敗れた平家の落人が命からがら五箇山に落ち延びて住みつき、昔の栄華をしのんで唄ったと伝わる「麦屋節」。日本最古の民謡といわれる「こきりこ」など、古くから伝承されてきたたくさんの民謡が今も歌い継がれており、五箇山は「民謡の宝庫」と言われています。

こきりこ

麦屋節

木材流送

庄川では、江戸時代(16世紀)以前から、上流の飛騨・五箇山地方の山奥から伐り出した木材を、豊富な水量と急流を利用して流送し、下流で引き上げ全国に売りさばく商売が盛んに行われていました。

小舟に乗って作業をする人夫たち

小牧ダムの建設計画

1914年第1次世界大戦が勃発、日本は空前の好景気となり工業の近代化が進み電力需要が高まりました。富山県出身の実業家浅野総一郎が庄川の流れをせき止めて巨大なダムを建設し水力発電を行うことを計画、1919年に電力会社を設立しました。

中央が浅野総一郎

庄川流木争議

計画が明らかになると庄川流域の人々から建設反対の声が上がり、とりわけ木材業者や流送従事者たちはダムができると木材が流せなくなると、大反対運動を展開しました。

武装した反対派住民

小牧ダムの完成

1930年、小牧ダムは高さ79.2m、長さ300.8mの当時東洋一を誇る重力式コンクリートダムとして完成しました。しかし、その後も反対運動(裁判闘争)は続き流血事件にまで発展しました。

完成当時東洋一の小牧ダム

船の運航開始

1933年、国による和解斡旋が成立し、木材を曳航するための船の運航が電力会社に義務付けられました。しかし、その翌年、大洪水で運材設備が破壊され流送ができなくなり、数年後、電力会社が道路を建設し、木材運送はトラック輸送に切り替えられました。

木材を曳航する汽船

湯治場「大牧温泉」

小牧ダムが出来るまでの大牧温泉は、江戸時代(16世紀)以前から、河原に露天風呂のある、万病に効果のある湯治場として人気がありました。

河原の露天風呂

大牧温泉観光旅館

1930年、ダム湖となって泉源が水没したため現在地に建物を新築し、1931年から「大牧温泉観光旅館」として営業を再開しました。陸路では行けなくなったため、木材を曳航する船でお客さまを送迎することになり、「船でしか行けない秘境の一軒宿」として人気旅館となりました。その後もテレビのサスペンスドラマの舞台として幾度も取り上げられたこともあり、現在でも全国からたくさんのお客様が訪れます。

新築された大牧温泉

知られざる「庄川軌道」

1926年、加越鉄道(1972年廃線)の庄川町駅から小牧作業場までダム建設資材を運搬するため4.74kmの「庄川軌道」が建設されました。ダム完成後は、ダム湖によって新たに出現した「新名所庄川峡」を訪れる観光客を運んでいましたが、ほとんど休日のみの利用だったため長続きせず1938年廃線となりました。

庄川軌道の電車